久し振りに料理というものをしてみた。
きっかけは記憶に残らない程些細な事であった。
一人で料理するのも何やら味気ないものだと思い、弟子達に一緒に料理をしないかと持ち掛けた。

仙界の時間の中、それをほとんど修行に費やしていた赤雲・碧雲の両名は、師と共に料理をするなど皆無に等しい。
自分たちの食い扶持は、自給自足の世界において自力で何とかするのが常であったからだ。
それに、師である竜吉公主が食事をしているところなど、見た事が無い。

だからこそ、何だか嬉しかった。

わくわくするような。

まるで子供のように(師の前では子供なのだが)目を輝かせ、そして何を作ろうかと盛り上がった。
と言っても、仙人や道士が口に出来るものなど限られていたので、何とも味気の無いレシピになってしまったが・・・。
何はともあれ、女人三人が台所に立つという、華やかな一場面が出来上がった事には変わり無かった。

「・・・不味い・・・ような気がする」
ぱた、と箸を置く。
そう口にしたのは公主だった。
不味いと言っておきながら、律儀に割り当てられた量を食べる辺りに性格が出ている。
「そうでしょうか?」
味付けは殆ど公主が担当した。
弟子達にどんな調理をするのか見せて欲しいとねだられたからであったが。

二人にとって、親と同然の公主に『お母さんの料理』というものを、一度でいいから食べてみたかった、と後で聞かされた。
口元に手を当て・・・前に食べたのはこんな味では無かった気がする・・・と記憶をたどる。が、どうも思い出せない。
手順も間違えてはいない(と思う)し、そんな大層な失敗もしていない(と思う)。

無言で考え込む公主を目の当たりに、赤雲・碧雲は顔を見合わせる。
二人には少なくとも『不味い』とは感じられなかった。むしろ『美味しい』の領分に入るべき料理だった。
「公主様は暫く何も口にしていなかったから、味覚が麻痺しているのかもしれませんよ?」
「きっとそうですよ!」
前者は赤雲。そして後者は碧雲。
いくら公主だからとて、公主の料理を不味いと認識させたくなかったのか。
二人共、公主の発言を否定したいようであった。
弟子達の必死な表情に、自然と笑みが浮かんだ。
「そうかもしれぬな」
ふわり・・・と、羽のように軽く笑う公主に。
何故か二人共、頬が紅潮した。

公主にとって、食事というものは必要無かった。
人間の真似事をせずとも、栄養を摂るという手段は生まれながらに知っていたから。
それが、生まれながらの仙女と呼ばれる所以のひとつでもあった・・・と言ってもいい。
けれど・・・。
(昔はよく・・・食べていたような気がする・・・)
鮮明に覚えている過去の糸を、虚ろな瞳で手繰り寄せる。
靄に見え隠れする・・・鮮やかな記憶。
『・・・公主』
ここには居ない・・・声がする。
あぁ違う。
これは幻聴だ。

私の中の一欠片の記憶。

耳に残る、自分を呼ぶ声が聞こえる。
ここに在らずとも、こんなにもハッキリと聞こえる。

『公主。食事が出来ましたから、師匠とあちらでお待ち下さいね』
『ちゃんと残さず食べてくださいね?でないと御体に支障をきたすかもしれませんよッ!?』

修行の合間に、食事時となると必ず食べるように叱った。

『必要無い』

一度そう口にしたら、まるで母親のように怒った。

『食べないと修行も満足に出来ません!どうしても食べないのなら、食べるまで寝台に入って頂きます!』

それは・・・困る。という事で、それ以来必ず食べることにした。

一方的に御馳走になっているのも悪いと思い、何か手伝おうとすると
『ここでは弟子が料理する決まりですから』
と一切台所には入らせてもらえなかった。

ではせめて後片付けでも・・・と言うと
『公主は座っているだけでいいですから』
・・・こう返された。

パタパタと忙しなく動いている様を見ていると、こちらだけ座っているのも悪い気がして・・・気が気で無かった。
『子供の我が侭ですから、好きにさせて下さい』
向かいに腰掛ける仙人がおっとりとお茶をすすりながら、公主を宥めた。
『我が侭?』
一人で働く事が?
どうも・・・腑に落ちない。
『あの子は貴女の御世話をしたいだけなんですよ』
またお茶を口にしながら、困ったように笑った。



懐かしい・・・とも穏やかなとも言える大切な記憶。
その中で、蒼い髪の少年が優しく自分を包んでくれていたのを覚えている。
「食事」というものを教えてくれたのも、与えてくれたのも。
かれこれ彼のみであった。
「人間」として生きる路を選んだ・・・。
「人間」としての生きる術を、自分は彼から学んだ。



封神計画が始動して以来、合う機会もめっきり減ってしまったが・・・。
元気にしているだろうか?
彼の事だから・・・。
心配無いだろうが。
きっと、マイペースで毎日を過ごしているに違いないだろう。





「で・・・」
目の前の相手は、明らかに怒っている。
「どうして貴女がここに居るんでしょうねェ・・・?」

ここは周の国。
宮殿の中の楊ゼンに割り当てられた部屋に、公主は彼を訪ねた。
礼儀を通す彼女は、本当に正直に真っ直ぐドアから訪ねたのだ。
扉を開けた楊ゼンは、訪ね人を確認すると同時にその場に崩れ落ちた。イキナリ座り込んでしまった様を目の当たりにし、実は体調が思わしく無いのかと公主は不安な面持ちで、彼の目の前に膝を付いた。
が、どうやら違うようで。
両二の腕を掴まれると、少々強引に彼の腕の中に引き寄せられた。
驚き、何と訊ねる間もなく、扉が勢いよく閉ざされた。
目撃者はゼロ。

「いや・・・少し訊きたい事があっての・・・」
もごもごと罰悪い様子で、公主が口を開いた。

部屋へ入るなり、来客用の豪奢な椅子へと招かれた。
お茶菓子も添えられて、急な訪問にあるにも関わらず丁重な持て成しだ。
相手が他ならぬ公主だから・・・である。これが公主でなかったらこんな事はしない。
しかし・・・公主は微塵も疑わない。
これが彼の誰に対しても変わらない接待だと。
未だに自覚無しの天然だが・・・。
今日はいつもと違うと、彼女であっても判った。

不機嫌な面持ち・・・。
理由は一つ。
突然の来訪。
「何の御用かは判りません・・・が!」
これが仙界においての来訪ならば、彼はこんなにも怒らなかっただろう。
「今ここがどんな状況か判ってらっしゃるでしょう!?」

状況その1。
対殷に向けての軍事調整。
それに比例する危険。
いつ敵が現れるか予測不能な状態だ。

状況その2。(これが最大の理由でもある)
ここは仙界とは全く違う人間界だ。
異質なだけの空気は、公主の体を貪る。
浄化宝貝も無しに単身で来るとは、自殺行為他ならない。

「判っておる・・・」
決して目を合わせる事は無かった。
どんなに怒ってるか判るから。
言いようの無い汗を手に握り締め、じっと耐える。組まれた手は膝の上に置かれて、出された茶菓子には手を出そうとはしなかった。
思った以上に、頭が重い。
まさかここまで頭が上がらなくなるとは、思ってもみなかった。

許容範囲外の事をしようとすると、いつだって楊ゼンは眉を吊り上げた。

そういえば、昔もよく怒られた事があった。

長い時間を過ごしてきた公主にとって、過去の記憶というものは希薄に近い。
取るに足ら無いものだったのか。それとも、残しておくにも価値が無いものだったのか。
どちらにしろ、トコロテン式にポロポロと無くなっていく。
無論、相反し色鮮やかに残る記憶もある。

その中でも、彼と過ごした日々は特別だった。

新鮮味があって、嵐のように時間は過ぎ去って行ってしまった。
毎日が大騒ぎで・・・それでかあの仙人はいつも頭を痛めていたっけ。

口元がふ・・・と綻ぶ。
現状から隔離された過去の世界に、ついつい浸ってしまった。

「・・・公主・・・ッ」
刺々しい声に、はっと我に返る。
そうだった。
今は説教を受けている身だった。
「いや・・・ちゃんと聞いておるし、判ってもおる」
公主はふるふると手を振り、楊ゼンと正面から向き直った。
あせあせと弁明するが、どうやら信用してくれないらしい。
は――――――ッ・・・と大きな溜息が一つ。
「全ッ然判っていらっしゃらないでしょう!」

遥か遠くから、軽やかなステップが聞こえる。

五感が人間よりも優れている公主の聴覚は、その足取りを素早く拾い上げた。
「本当に本当に!ここは何が起こるか判らない分、危険なんです!」
それに楊ゼンは気付いているのか、気付いていないのか。
お構いなしにお小言をくどくどと続ける。
だが公主もお構いなしに、耳を傾け足音を辿る。

どうやらこちらに向かっているようだが?

「何か御用でしたら僕がお訪ねするのに・・・何故使いの一つもよこして下さらないのですか!?」

やがて音の主は、何かに弾かれたように走り出す。
スピードが徐々に加速する。

そして。
扉が乱暴に開かれた。


「激プリンちゃん発――――――――ッ」

・・・見と言い終わる前に。
公主が、それが何たるかを確認する前に。
いや・・・目にする前に。


楊ゼンの容赦無い三尖刀による攻撃が、繰り出された。
ご丁寧に哮天犬付きで。

「とまあ・・・このように、本当に何が起こるか判らないんですってば」
パタンと扉が再び閉ざされた。
「楊ゼン・・・今のは?」
「お気になさらぬよう」

木材質の扉に、コツンと頭から重心を掛ける。

疲労の色を隠し切れない横顔。
やはり・・・自分が想像している以上に苦労しているのだ。
それもそうか。
封神計画という気の遠くなる任を一役担いでいるのだから。
あの太公望のサポートをも担っているのだ。

扉を堅く閉ざした楊ゼンの手に、公主は自ずから手を重ねた。
滅多に感情の色を表さないその清廉な顔は、申し訳無さからか物憂げに笑っていた。
「・・・済まなかった。本当に」
「・・・公主?」
ゆっくりと、長い睫が伏せられる。
「私の身勝手がそなたに負担を掛けさせた。ただでさえ大変だというのに」
真摯な物言いに、何故か頬が紅潮する。
こういったことは・・・慣れているはずなのに・・・だ。
「あ・・・いえ・・・」
さっきとは打って変わって、今度は言葉を詰まらせる。

公主が俯いてくれていて良かった。
こんな情けない表情を見られなくて。

「仕事の邪魔をして、悪かった」
向けられた顔は、穏やかな笑みを浮かべていた。
こんな時はいつだって、表情豊かだ。
それが、逆に嬉しくもある。
「早々に立ち去る故、許されよ」
と、今度は公主が扉を開けようとした。
あくまでも窓から出入りする事はしないようだ。

「ちょ・・・っと待って下さい?」
慌てて引き止める。
部屋から出て行こうとする公主の体に手を掛けた。
両肩を掴み己に向き直させる。
口に出さず、何かと紺碧の瞳が問いかける。
「結局のところ・・・何の御用なんですか?」
さっきから小言ばかりで、本題には触れられなかったが・・・。
まさか公主が、何の用も無く自分を訪ねてくるワケが無い。
その方が何倍も嬉しいのだが・・・公主に限ってそれはあり得ぬ話だ。

公主は、自分の洞府での出来事・・・弟子達と料理をした事について話し出した。
だが、昔食べた料理とは味がどうも違うと言うのだ。
きっと、自分で作ったからだと公主は口にする。
昔食べていたのは楊ゼンの料理だったから、自分とは味付けが基本的に違うのだと。
違和感のある料理では、弟子達に申し訳無いから。
だから。
「料理の手解きを・・・願おうと・・・」
ぽそぽそと少々躊躇いがちに口にした。
本当に本当に、聞き逃してしまいそうな小さな声で。

きっと本人に自覚は無いだろうけど。
こんな事、自覚する事も無いだろうし、自覚してもらおうと思わないけれど。

「な・・・んだ」
拍子抜けした声が漏れる。
「そんな事でしたか・・・」


小さく頷くその仕草さえも。

肩から背へ、ゆっくりと腕を廻した。
気付いた公主が、顔を上げる。

逆らう事無く、自然と楊ゼンの腕に細い体が収まる。
それが当然のように。
「本当に貴女は」
唇を公主の耳元へあてて、囁く。

「可愛い方ですねぇ」

一瞬拍が空いた。
その言葉を理解した時、公主は耳朶までもが熱を持っていったのをリアルに感じていた。

「か・・・からかうでないッ」
恥ずかしさから逃れるように、楊ゼンの腕の中で身じろいだ。
「本当の事ですから」
華奢な体を押さえ付け、動きを封じると共に軽々と抱き上げる。
不意にバランスを失った体を支えるため、楊ゼンの首筋に腕を廻した。時々全てが計算されているのではないかと、不信感を募らせる。多分、八割正解であろう。自分の感というものが、どの程度当たるかも判らないが。

軽く睨むその表情も、また可愛くて仕方が無い。
当然年上なのだが、それも魅力の一つかもしれないし。
「それで、何を食したいのですか?」
紫の瞳がこちらを深く覗き見る。
「だから・・・手解きを」
「ダメです」
公主の言葉を遮るように、ぴしゃりと楊ゼンが言い放った。
「教えてしまっては、公主はもう僕のところに食べに来てくれなくなるでしょう?だからイヤです」

我が侭というか・・・何と言うか・・・。

力無くうなだれる公主に、くすくすと笑いかける。
「何を作りましょうか、姫君?」
再び問い掛ける。
今度は少々わざとらしく演技を入れてみた。
すると、苦笑交じりの溜息が一つ・・・薄い唇から短く漏れた。
「何でも良いよ。そなたが作ってくれるのなら」
というか、自分よりも楊ゼンの方が自分の好みを知っていそうだから、楊ゼンに任せた方が無難なのだと思うし。
「それでは早々にお運び致しますよ、公主」

そう言って、額に唇を落とした。

それが少しくすぐったくて・・・でも昔に戻ったようで嬉しくて。
公主もまたそれに応えるかのように、楊ゼンの首元に抱き付いた。その行為がどれだけ楊ゼンの感情を助長するかも知らずに・・・。

「ところで公主」
抱上げたまま、楊ゼンはふと疑問を口にした。
「今・・・浮遊能力をお使いですか?」
まさかそんな器用な事はしないと思うが、一応の確認。
「・・・使った方が良いか?」
「逆ですね」
言葉の真意が判らず、公主は首を傾げる。
何故かと問うても、「別に」とはぐらされるだけで何も答えてはくれなかった。


体重を感じない。
(原理は判らないが)浮遊能力において、減量が必要だとは思えない。

(軽すぎるなぁ)

いくら何でもこれは軽すぎる。
イコール不健康だ。
自分がずっと側に控えていたら、こんなにも痩せ細らせず、ふくよかな体型作りに貢献したのに。

(ちょっとは体重を付けさせないと・・・)

こうして、我が侭道士の(野望なる)料理が始まった。
もちろん、仙界の天然姫君がその意図を知る由も無かった事は・・・言うまでも無い。



追記。

「王サマ・・・何やってるさ?」

偶然楊ゼンの部屋の前を通りかかった一人の道士が、哮天犬に頭を丸ごとはむはむと噛まれながら倒れている一国の君主を見付けた。

扉の真正面にに在ったはずの、手入れの行き届いた木といえば・・・見事に三尖刀により真っ二つに折られている。
二つの宝貝の持ち主たる部屋からは、決してこんな下界では感じる事の無い清浄な気配が一つ。

「あ――――あぁ・・・」

それで判る自分も何だかなと思いつつ。
「まぁ・・・自業自得さ、王サマ?」
とばっちりはゴメンであると、早々とその場から消える事を選んだその道士は懸命である。
『例の御方』の事となれば、異常なほど神経過敏なのだから。
きっと、あの気配が消えるまではこの宝貝から解放される事は無いだろう。

「それまで頑張るさ〜?」


まるで他人事(それはそうだ)のように、その道士は一国の主に手を貸す事もなく、ひょこひょこと軽快な足取りで立ち去った。