無題
(仮題「カザフスタンの水頭症の幼児によせて」)

Napraforgo

 


大人を呼んで泣くこの子の顔を
何故 誰も覗き込まないのか
乳をねだる赤子の口に
何故 母の乳房は触れないのか


脊髄液が溜まり続け
大きく平たく膨れた頭
「この子は永遠に起き上がれない
独りでは寝返りすら打てない」
恐怖や同情が枯れ果てた眼差しで
看護婦が呟く

果て無く膨らむ頭の皮膚に
上の瞼が引っ張られ
いつも上下逆さの三白眼は
泣きじゃくるたび白目をむき
頭蓋に満ちる液に押されて
脳は成長せず

この子の母親は 少女の頃
偽りの太陽の光を浴び
偽りの雪を肌に受け
この子の父親は 兵士として
偽りの雲へ突撃を命じられ
偽りの安全を素直に信じ

虚脱 白血病 脱毛 皮膚ガン
次々と倒れる友人らに続いて
蝕まれた父親の身体は
この子の顔すら見ることもなく
血を吐いて死んだ

目が無い 指が無い 頭が二つ
村ごとに聞こえる奇形児の噂に
怯えた母親の心は
この子と自分の運命を呪いつつ
狂って死んだ

残されたこの子に
どんな明日があるというのか
脳を圧迫する脊髄液を抜いて
一生 障害を抱えるか
頭の床擦れに手も届かぬまま
物心つく前にこの世を去るか

この子に この子の両親に
何の罪があったというのか
このような運命(さだめ)を与える権利が
なんぴとに なにものに あるというのか

この子と この子の両親の
かけがえの無い人生を奪った兵器
ヒロシマを ナガサキを焼き払い 叩き潰し
今も人々を責めさいなむ兵器
地球と人間を一瞬で焼き尽くし
永遠に壊し続ける兵器
それは人類への呪い
それは地球への挑戦

許せないという感情を永遠に持てない
この子の代わりに憤ろうではないか
許せないという言葉を二度と口にできない
父親の代わりに叫ぼうではないか
許せないという表情を最早つくれない
母親の代わりに涙しようではないか
許せないという感情が 言葉が 表情が
現実を動かすひとつの巨大な力となり
かの兵器を葬り去る
その日まで

そして 願わくば
やっと真に安らかに眠れる父親の墓前で
大人を呼んで泣く赤子の顔を
心を取り戻した母親が覗き込み
乳をねだる赤子の口に
母の乳房と
かの兵器が消え去った平和が
もたらされますように

 


初出;  本ホームページ


解説;

 ソ連の一部だったカザフスタン共和国・セミパラチンスクは、核実験場でした。核爆発のたびに放射線が周囲に照りつけ、放射性物質が周囲の草原や村村に降りかかりました。
 その結果、広大なステップで平穏に暮らしてきた現地の遊牧民・カザフ人の中で、皮膚ガン・白血病・奇形児出産などが相次いでいます。旧ソ連時代には国家機密としてひた隠しにされ、連邦崩壊後はロシア共和国が核実験データを持ち去ったために周辺住民の被爆の実態がつかめず、彼等の苦しみがあがなわれるまでにはまだまだ長い道のりが必要です。

 ある雑誌を読んでいて目に飛び込んできた写真が、この詩を書くきっかけとなりました。両親に捨てられた(*)その子は横向きに寝たまま看護婦から哺乳ビンでミルクをもらっていました。「この子があとどれだけ生きられるか、私たちにはわからない。でも、撮ってやってほしい。この実態を世界に知らせて欲しい」------病院のスタッフが、そのカメラマンに語ったといいます。
*両親の立場を考えると、「捨てられた」という表現では事実を語り尽くしているとは言いがたいのです。水頭症の赤ん坊を普通に抱きかかえると、水風船のような状態の頭部が脊髄液の重みで変形し、それにつられて脳が壊れ、赤ん坊は死んでしまうのです。自分たちの手で育てようにも打つ手がなかった、というのが、真相のはずです。

 これを書いている今もあの幼児が生きているかどうか、わかりません。しかし、否、だからこそ、私はこのエピソードを詩に託さずにはいられなかったのです。

(10/10/1999) 


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