合唱はじめ(1)


 最初のページでは随分と御大層なことを書いてしまいましたが、私は自分に音楽的な素養があるとは思っていません。
 恥ずかしい話、いまだに譜読みができないんですから(^ ^;


 小学校時代、指先が不器用で楽器が下手で、歌のテストでは高音部を裏声でやり過ごしていた私は、音楽はほぼ常に「ふつう」以下でした。
 とくにうちの小学校では、各ステップごとに楽器の課題曲があって、あるステップをクリアしないと夏休みに補習を受けさせられるという実に理不尽なシステムがありました。
 ホームルームの時間に皆の前で課題曲を演奏し、ミス無くできれば合格、というわけです。
 本当なら触りたくもないリコーダーやピアニカを夏休みをつぶされたくないがために泣く泣く練習し、終業式直前にステップをクリアしたことが、幾度もあります。担任の先生は表面的な実績は上げたかも知れませんが、おかげで私は音楽が大嫌いになりました。

 しかし、中学に入ると、音楽は合唱一辺倒。
 毎日の朝と帰りのホームルームに合唱の時間があり、学芸会のメインステージはクラス対抗の合唱発表会。相変わらず楽譜には親近感はありませんでしたが、楽器に触らずに済む安心感から、音楽嫌いは少し癒されました。
 合唱部の活動もかなり活発なもんでした。しかし、合唱部は普段は女子部員ばかりで、男子部員がいませんでした。毎年NHKや地元民放の音楽コンクールの地区予選が近づくと、合唱部の部員は徒党を組んでクラスを回り、助っ人に使えそうな男子を説得しにかかっていました。

 で、3年の秋、私に声がかかったのです。
 私を説得に来た面々の中に、当時私が片思いをしていた合唱部の部長さんがいました。
「部長から頼めばNapraforgoはオちる」という計算が利発な子が多かった合唱部の側にあったか無かったか、ともかく私は引き受け、レッスンに加わりました。
 で、一番最後に助っ人に入った私が、当時合唱部が取り組んでいた重唱のメンバーに選ばれたのです。最初は声量がコントロールできずに叱られてばかりでしたが、コンクールでは合唱ともども賞をとることができました。
 卒業間際には後輩たちがお別れ会を開いてくれて、たかだか数ヶ月間の助っ人に過ぎない男子も招かれました。

 といった具合に、私にとっては実に楽しかった合唱部でしたが、不幸なことに家族の理解はほとんどありませんでした。
 小学校の先生をやっていた両親が、クラブ活動を嫌っていたのです。
 「クラス運営をそっちのけにして部活の顧問に没頭する教師が多い。担任のクラスは荒れ放題だし、部員の生活指導もなっていない。生徒は放課後の部活の練習で疲れて勉強に身が入らず、
先生がそれを容認するという悪循環になっている。非行や悪さをするのも、部活の部員でつるんでの場合が多い。だから、部活なんて百害あって一利なし」------これが両親の理論武装の全容です。
 当時、姉は高校で新聞部に出入りしてましたが、「合唱部で歌いたい」という弟をかばうどころか、なんと逆に両親と一緒になって私を抑え込みにかかったのです。
 更に厄介なことに、田舎の世間の狭さの恐ろしさ、合唱部の部長のお姉さんは私の姉のクラスメートで、
高校の合唱部の部員だったのですが、間の悪いことに、ちょうどその頃大学受験を控えた引退の件で
部の仲間や後輩と押し問答になっていたのです。
 当然、弟の片思いの件もしっかり筒抜け。両親と一緒に「成績が下がる」「不良化する」と言い立て、 「○○ちゃん(合唱部の部長)が居るからやりたいんでしょ?歌いたいわけでもないのに合唱部やるの?」と罵倒し、果てはこんなことまで言い出しました------

「私たちが反対したってアンタは諦めないんでしょ?だったら何で相談するのさ?
私たちがヤメロって言ってるんだから、さっさと止めなさいよ」

------それ以来、私は姉を家族として認めきれなくなったままです。


 高校時代は、自ら歌うことはありませんでした。
 それでも高校の合唱部の定期演奏会は欠かさずに聞きに行きました。地元の小中学校・高校の音楽系部活の合同発表会が毎年地元の文化センターで催されていて、それは欠かさずに聞きに行っていました。


 私が合唱に復帰したのは、大学2回生の夏。京都ミューズが毎年企画している「『第九』をうたう会」に入り、12月に京都会館でステージに立ちました。
 それ以降、途切れ途切れではあれ、私は合唱にたずさわり、ぽつぽつとステージに立っています。


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