2月22日(月)
過保護なトマトは甘くならない。
南米アンデス原産のトマトは、元々が高原育ちだから、水が少なくても十分育つ。いや、むしろ水を極限まで減らしたほうが甘味のある美味しいトマトになるらしい。
たいていの植物は、存続の危機を感じると、その種を残そうとする。いい例が蘭。蘭は水を止められると「このままでは枯れてしまう」と感じ、種を保存するために花を咲かせる。トマトも、水をやらなければ、種を保存するためにより甘い実をつけるのだと思う。
じゃあ、なんで日本のスーパーでそんな甘いトマトが売っていないのか。それはより早く、より多くの収穫を得るためという理由でトマトに手をかけすぎているからではないか。しかし、そこのは生産者側の論理しかない。
最も、本来「品質」の中でも「味」を一番重要視すべきなのに、本来の「収穫期以外」の時期にそれを求めたり、きゅうりやナスが「まっすぐ」なのをありがたがったり、土がついているのを「汚い」と嫌がる馬鹿な消費者も多かったわけだから、生産者だけを責めるわけにはいかないが。
そして「消費者ニーズ」の名の元に生産者は本来の「農作物」としての機能以外の部分に手をかけ始める。結果的に手をかけすぎた農作物は、本来の「味」を失っていく。肥料を過剰に与えられ、本来の成長速度を無視され、味も形も平均的な野菜が出来あがり。まるで工場で生産されるブロイラーやフォアグラのように。
スーパーで売っているトマトはみんな同じように赤く、同じような大きさで並んでいるが、あれは実はトマトに見えるだけで、ほんとうは工業製品なんじゃないだろうか・・・と。
さて、こういう画一的に「生産」されているのは何もトマトばかりではない。振り返って見ると、日本は人間さえも型にはまった大量生産の既製品を作ってきたのではないだろうか。
日本の教育は、たくさん実をつけさせるために水も肥料も大量に与えられたトマトのようだ。すべての「製品」が同じ形、同じ色。そこに個性があっては、箱に詰めるときに面倒だから、無理矢理「間引き」してしまう。箱はそんな規格外品は求めていないのだと。
形ばかりの平等・・・運動会で1着もビリも同じ賞品・・・最近は片親が多いから「父兄参観」とは呼ばない・・・。
そういうエセ平等性を説いておきながら、いざ高校受験ともなれば、テストの点数で優劣が決まるというシステムでは、子供達にそっぽを向かれて当然である。そして、本来当たり前のはずのこういうの「いい味」の子供達が「規格外品」のレッテルを貼られてしまう。
「同じ」と「平等」はまったく意味が違う。少なくても人間の能力はみんな「同じ」ではない。人にはできる事とできない事がある。かけっこで負けたら素直に「悔しい」と思えばいい。負けたくなければ練習する。努力する。かけっこで勝てなければ、他の事で勝てばいい。学校はこの「努力する気持ち」と「自分のできる事を捜す」ための手助けをするところではないのか。それが勉強だと思うのだが。
ただ単に「記憶」を詰めこむだけなら、今の時代は個人で所有している「パソコン」の方が遥かに能力が上だ。これまでの日本の教育っていうのは、本来人によってあって当たり前の「違い」を「平等」という名のもとに「見なかったこと」にしてしまっているだけのような気がする。しかし、現実には人間にはそれぞれ差があって当然である。
もっと広義にとれば、体が不自由な人に対する考え方も同じだとおもう。例えば手がなくたって、それはその人が「手がない」という事によってできない事があるというだけで、かけっこで1番になれなかったこととたいして違いはないと思う。それを「かわいそう」なんていったところで、何の慰めになるのか。
人は人と関わりあって、はじめて人間になれる。お互いの足りない部分を補い合ってこそ人間である。足が遅い奴には自転車を貸してやればいい。記憶力が悪ければパソコンを貸してやればいい。手がない奴には手を貸してやればいい。
でも、私は歩くのが下手だからといって、転んだ子供が起き上がるのに手を貸すことはしない。泣いても、多少擦りむいていても、立ちあがるまでは自分でさせる。なぜなら、肥料を与えすぎた人間は、自分の足で立つ事を忘れてしまうからだ。
少なくても、私はこれからも自分の子供にそういう教育をしていくつもりだ。
今日の教訓:愛情はすべてを「やってあげる」ことではない。
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