1月28日(木)


先日のニュースで、臓器提供に同意するドナーカードをローソンで扱う事になったと報じていた。短絡的に考えると、いよいよコンビニで内臓を売る時代になってしまったようで、なんだかねぇ。

アメリカでは頻繁に行われている臓器移植だが、死者に対する歴史的・文化的考え方の違いがあるのだから、「欧米に比べて日本が遅れている」という表現には抵抗を感じる。

極端な話ではあるが、あなたの場合次のパターンならどう考えるか。どちらの場合も臓器移植を肯定できるか?

1.あなたの子供が臓器移植を受けなければ助からない場合。

2.あなたの子供が不慮の事故で亡くなり、臓器移植を申し込まれた場合。

私自身は1の場合、どんなにお金がかかろうが、何があろうが臓器移植を肯定するだろう。しかし、2の場合は、遺体とはいえその体を切り刻まれるという親の痛みと、肉体の一部とはいえこの世に残るという思いのどちらを選択するか、その場にならないとわからない。

「そんな考え方は自分勝手」だとか「傲慢だ」とか非難されるかもしれないが、親の気持ちなんてそんなもんだと思う。

ましてや、「脳死」を「死」と捕らえられるかと言うと、さらに問題は複雑だ。私は高校時代に癌で弟を亡くしているが、医学上は「死」であっても、その時点では「亡くなった」なんてことは親族として肯定できない。「そんなはずはない」という思い・・・今でも扉を開けて、当時のままの姿で帰ってきそうな気がする。

だから、「医学的には死です」と言われても「ハイそうですか」なんてのは、少なくても日本的には受入れにくい部分であろう。

さらに、現代の臓器移植の成功率はどのくらいかという問題もある。臓器を移植しても、結局は短期的な延命効果しか期待できないのでは、患者にとって苦しい時間を延ばすだけの結果になりかねない。このへんが紋切り型に臓器移植を肯定・否定できない理由であろう。

私は個人的には人間の生命力って言うのは相当に強いもんだと思っている。骨折みたいな整形外科的な奴は除いて、たいていの病気は自己治癒しちゃうんじゃないかと。

正直言って、現代医学では検査技術の発達で早期発見・早期治療で致死率が下がっているが、高い診療費を取ってもほんとうに医者や薬が「治せる」病気なんてのは、昔とたいして変わっていないんじゃかと思う。脳卒中や心筋梗塞だって、食事や運動によって予防し、薬で症状を抑えるだけで、決して「治癒」するわけではないし。ましてや癌は早期発見、早期治療が基本。

「死」は某作家的に言えば「寿命」だそうだ。人間はいつかは「死」を迎える。私が弟のことから学んだ事は、「今日一日を大切に生きるか」ということである。大切なのは長く生きることではなく、悔いなく生きることだと思うのだ。

だから、私自身は何があっても臓器移植を受ける立場にはならないだろうし、逆に自分自身のドナー登録についてはあまり抵抗はない。コンビニにドナーカードが置いてあれば、貰ってくる可能性は高いし、その点では、ドナー登録者の増加には効果があるかもしれない。

しかし、もし私が「死」を迎えたとき、私の家族がカードを持っていたからといってそれを肯定できるかというと、日頃からそういう問題についてじっくり話をしておかない限り、実際の「臓器提供者」になるのは無理だろうなぁ。

ところで、カード貰ってくるときは、お店の人に言うんだろうか。「カラアゲ君1つとドナーカード1枚ください」とか。で、登録はLoppyでやったりして。でも高島●●にCMでやられるのだけは勘弁して欲しいね。「今ならはんがくぅ〜」なんて。


今日の教訓:もっともまだまだ死ぬつもりはないが。


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