1月25日(月)


インターネットは情報をほぼリアルタイムで伝達したり、マスコミ以外の個人レベルでも不特定多数の人にコミュニケートできるというメリットがある。しかし、これだけリアルタイムに情報が入ってくると、メッセージを発する側の「自己責任」と、受けて側の「情報の選別」が重要になってくる。その情報が自分にとって有益なのか?その情報が正しいのか?

毎朝、私が2階の部屋から1階に降りるために「いくよ〜」というと、うちの雄太はすたすたと階段のところまで歩いていき、私がそこまでいくのを待っている。1人の時はそこから階段に向かってまっすぐ踏み出すことはない。私が階段を2段ほど降りたところで雄太に向かって振り向くと、まっすぐ飛びこんできて抱っこする。そのとき、雄太は100%私が受けとめると信じて、階段から落ちるとなか、私が受けとめないかも知れないなんてことは頭の片隅にもない。信頼度100%の世界なのだ。

しかし、残念ながらネットの世界では100%相手を信頼する事は難しい。最近もずいぶんインターネットの「悪い道具」としての側面が取り上げられた。ネットを通して買った毒物で自殺したとか、それで人を殺したとか。ほんの僅かな人達起こした「事件」なのに、「マス」コミュニケーションの手にかかると「インターネットで」とひとくくりにされててしまうことは残念だが、そういう人達がいることも事実なのだ。

インターネットは所詮道具である。人間が道具を使うとき、昔からそれを「善」に使えば素晴らしい価値を産み、「悪」に使えば恐ろしい兵器になる。薬の選び方を教えるか、毒薬の作り方を教えるかは、作り手のほんの僅かな「理性」や「意識」の差でしかないのかもしれない。

今日、素晴らしいサイトを見つけた。夕食後にそのサイトをめぐみに見せた。めぐみは純粋に喜び、4回も繰り返し見つづけていた。そこで私は気づいたのだが、見るたびにめぐみが発するコメントが変わっていくのだ。

最初はクリックすると絵が変わることを楽しみに見る。

2回目は「あっ、ちょうちょきた」「あれ?おきちゃったよ」「おっきーい」。

3回目になると、「ちょうちょがきたねぇ」「りすもきたねぇ」「あ、かえるもきたねぇ」「あれ?おきちゃったよ、あ、ねちゃった」「おはないっぱいだねぇ」「おっきーい、きいろいおはなだよ」。

そして、4回目。「ママ〜見て見て!ほら、おはないっぱいだよ!」。

この間、ほんの15分の出来事である。たったそれだけの間に、めぐみは絵本から情報を得、自分で理解し、自分なりに解釈し、その情報を人に伝えている。なんだ、インターネットでいちばん大切でいちばん楽しいことを、3歳前の子供が十分やっているじゃないか。

ネットには個人が文章や画像や音楽を使って自由な表現を簡単にできるというメリットがある。ほんの10年前まではそれなりのプロしかできなかった技術が簡単に使える。しかも、3歳前の子供でも十分受け手となり得る。でもその「道具」の使い方を誤ると、ネットはまったくつまらない、あるいは恐ろしいものになってしまう。

「自由な表現」と「無秩序」とでは話しが違う。また、ネットは匿名性が特徴であり、それが故に本音を出せる部分もあるが、その一方で実社会よりも無責任になりがちだ。それだけに送り手側・受け手側双方の自己責任がますます大切になるのだと思う。

そこに策略や歪曲があれば、それはもう「情報」ではない。そして、そういうウソに一番敏感なのは、誰よりも子供たちかもしれない。


今日の教訓:アイディア次第でもっと出来る事がある。


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