philosophia

心理分析哲学

1999.9.作成 

知覚の理論負荷性 心理検査の必要性

 ここに一枚の絵がありますが、何に見えますか?。そうです。アヒルです?。他に「違うように見えた」という方がいらっしゃいますか?。アヒルに見える人が殆どではないでしょうか?。ではちょっと細工してこれではどうでしょう、何に見えます?。ちょっとびっくりしましたか?。そうです。今度はウサギに見えたはずです。この絵は、有名な絵で、有名といいましてもある世界では有名な絵なんですが、「アヒルウサギの反転図形」といいます。

 ここでまた一つ質問します。「どうしてアヒルやウサギに見えたんでしょう」。変な質問でしょうか?。どうしてって?。「見えたから見えた」というのが答えでしょうか。ではちょっと質問を変えて、「なぜ見えたのでしょうか?」。やはり「見えたから見えた」と言ってしまいそうです。しかし、もう少し考えてみるとこんなのはどうでしょう。「似ていたから」。なにやら立派な答えが言うことができたような気がします。

 「似てた??」何と比べて・・。そうウサギと比べて・・。比べたウサギはどこに??。うぬ・・??。

 それは私達の心の中に・・。

 今「似ていたから」と答えることができたのは、あらかじめ私達の中に、アヒルとウサギがあった(知っていた)からですよね。私達は先にアヒルやウサギを知っていたからこそ、それと比べてアヒルとかウサギに「似ていた」と答えることができたわけです。

 しかし、もしそのアヒルやウサギをですね。私達が知らないとすればどうなるでしょう。これは何に見えます?。困りませんか?。

 例えば、生まれて間もない赤ちゃんになってもらっても結構です。さて、その赤ちゃんは何に見えるでしょう??・言葉の喋れる赤ちゃんとしますよ。何に見えます?。

 何に見えるか分かりませんよね。大変困るはずです。おそらく赤ちゃんにも何かは見えているはずです。絵そのものがね。だけど何に見えるかは答えられないじゃないでしょうか・・ウサギやアヒルを知らないから・そしてまだなにも知らないから・・言葉を喋れても言えない。

 私達もアヒルやウサギを知らないとなれば困りますよね。僕は思い当たらない。たとえば「とりの顔」とか「動物」・・はたまた線・・等と答えることができるかも知れませんが、それも知らないとなれば答えられますか?。

 このことを少し整理してみたいと思いますが・・。赤ちゃんに取っては、「まだ知らないことは言えない」と言えそうですが、

 簡単に言うと私達も知らないことは言えない・・と言うことなのでしょうかが・・

 私達は、「私達の持っている情報を基礎にして、その情報と照らし合わせて、情報の処理をしている。理解する。判断する」ということではないでしょうか。アヒルやウサギという情報を持っていたから、その情報と照らし合わせて、その課題を「似ていた」と処理することができたということです。

 逆に言うと、「情報なしには、物事を判断できない」ということでもあります。先程私達は、「アヒルやウサギをしらないと、何と言っていいか困ってしまいました。情報を獲得していなくては処理できない。それは言い換えますと、「物事を理解したり判断するためには、随分、自分の持っている情報に左右される」と言うことでもあります。大切なことだと思います。

 「物事を理解したり判断するためには、随分、自分の持っている情報に左右される」。言い方としては違っていますが・このことを「知覚の理論負荷性」といいます。

 では

 H11.2.3の朝日新聞にこんな記事が載っていました。ある臨床心理士の発言ですが・・
「心理検査はしない。性格を査定しようとすればモノサシが必要になる。測れるものじゃないのに」という記事です。
 私はまず・・社会はモノサシだらけで、私達はモノサシの中で生きているといっても過言ではないのではないかと思っています。ですから私は「あなたの中にモノサシがないのか?」と言いたい。性格がモノサシで測れるかどうか分かりませんが、私達は少なからず自分のモノサシを持っていて、多様な事象を自分のモノサシで測っていると思うのです。もしそのモノサシが歪んでいるとすれば、それこそ不幸というものです。心理検査にも歪みの要素があり万能ではないと思いますが、人のモノサシにはない歪みの修正という要素があると思います。その意味では心理検査は有効なものと思っています。そしてもっと大切なことは、このような意識を持って日々接する意識を持つことなのではないでしょうか・・

  

 それで、大変おこがましいことですが、これらのことから、一つ臨床家としての心構えを言っておきたい。それは「私達の持っている情報を基礎にして、その情報と照らし合わせて、情報の処理をしている。理解する。判断する」のだとすれば、たとえば常識的な情報を持たずして、ゆがんだ情報獲得している人が、判断したり、検査したとなれば、結果はゆがんだものであり、判断の信頼性は低いものなるということです。

 臨床家としては、まずは常識人であれ。つまり一般性を持った状態であることが必要であると言うことであります。それを私なりに言い換えますと、ちょっと論理は飛躍しますが、「臨床家は謙虚であれ」と言うことであります。「無知の知」。「私は、知らないと言うことを知っている」ということであり、「私は分かっていないんだ、ということを知っている」ということであり、私は、謙虚さの中から、真の人の理解に近づけるものだと思っています。

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