ネオン

040510



はっと目を覚ます。新幹線が急カーブを曲がったのか、座っているのに身体が大きく左へ傾く。
水野は辺りを見渡した。
平日の夜8時半。サラリーマンで混んでいてもいい時間だというのに、その車内は酷く閑散として同じ車両に両手の数程しか乗客はいなかった。禁煙車両だからなのか、それとも偶然のエアスポットなのかは分からないが、練習の疲れで静かな眠りを欲していた水野には好都合だった。
新横浜を出発してから2時間弱。名古屋はとうに通り過ぎている。京都まであとちょっとだな、と水野は腕時計をちらりとみやりながら思った。
短いながらもぐっすりと眠ったのが効いたのか目は冴えている。これ以上眠る気にはなれなかった。
水野は窓の外を眺めた。
外は既に真っ暗だった。流れゆく景色の中、山の稜線の合間に時折民家の灯りらしきものが見える。
窓の外側には小さな雨の雫が貼り付いている。途中雨が降ったのだろう、窓に映り込む自分の横顔は水玉模様に彩られている。
別に面白い光景でもなんでもなかったが、することもないので水野はぼんやりと自分の顔を眺めた。
(新幹線にこうして乗るの、久しぶりだな)
仕事柄、移動はつきものだがそれでも専用バスであったり、また新幹線に乗ってもチームメイトの誰かとは相席で、こうしてただ一人ぼんやりと静かに移時間を過ごすのは本当に久しぶりのことだった。
といっても今日はプライベートなわけだが。京都くんだりまで出かけるなんてのは勿論唯一つの理由あってのことだ。
シゲは元気にしているだろうか。
しばらくブラウン管越しにしか見ていない派手な金髪を水野はぼんやりと思い浮かべた。
ここしばらく忙しくて、水野とシゲはお互いに電話もままならなかった。
最後に会ったのは3ヶ月以上も前だ。その頃も、チームが優勝して何かと忙しく、もっぱら時間を作ってまめに横浜まで来てくれていたのはシゲの方だったから、こうして水野の方から京都へ出かけるのは本当に久しぶりのことだった。
水野の京都の最後の記憶は、半袖のシゲだ。じんわりと蒸した四条通りを二人で暑い暑いと文句を言いながら歩いた。
シゲにしては珍しく、濃紺の麻のシャツなんて着ていた。姉から押し付けられたというシャツは、けれどしっくりと馴染んでいて、あの日、とんでもなく蒸し暑かった夏の景色の中で唯一の清涼として、くっきりと水野の心に焼き付いた。忘れることなんで出来ない程、鮮やかに。
水野は軽く目を瞑った。
あと、ちょっとで会える。
ゆっくりと、鮮やかな濃紺が瞼の裏に蘇る。
「あ…駄目、かも」
ふう、と息をつく。
昔からそれこそ顔も見飽きる程に一緒にいるのに、今日は酷く落ち着かない。
新幹線が再びカーブを曲がる。レールの軋む音が大きく響く。
窓の外の灯りが少しずつその数を増している。
京都までもう少しだ。水野は軽く伸びをした。座り続けていた身体の節が多少痛い。
(今頃、駅で待ってるかな)
以前より乗車時間が短縮されたとはいえ、それでも片道2時間ちょっとの距離は、お互いの都合もあってひょいと一越えというわけにはいかない。
昔は、大人になればもっといろんな事が思い通りになると思い込んでいた。お金のない高校生の時分などは、それこそ会える回数も時間も限られていて。夜行バスで行ったり来たりすることも少なくなくて。
あの頃より、今は遥かに大人になった筈なのに、どうしてだろう。手に入れた自由よりも手放した自由の方がずっと大きい気がする。
けれどそんな理不尽を声もなく飲み込んでいる自分を見つける度、これが大人になることなのだろうと無理やりに自分を納得させていた。
けれど。
こうして、たまに何かが自分の中で小さな竜巻を起こす。
急に心がざわめいて。
離れていると、それこそ忘れて普通に生活をしている時間がいっそ多いのに。
思い出す濃紺さえ、酷く切なくて息苦しい。




「シゲ!」
改札の向こうから大きな声で名前を呼ばれ、シゲは慌てて水野を柱の影に引っ張り込んだ。
「アホ!何でかい声で名前呼んどるんや」
「あ、ごめん」
これでも一応、地元ではそれなりに有名人なのだ。シゲは薄いグレーのサングラス越しに辺りを見渡した。やはり若手有望株の水野とのツーショットに気付いた者もいるらしく、あちこちから視線が飛んでくるのが分かった。
騒がれる前にシゲはさっさと水野を引っ張って駅ビルの外へと連れ出した。
「ったく…危うくとっつかまるとこやったやないか」
「…ごめん」
珍しく素直に誤る水野にシゲは少し不思議そうな顔を見せた。
こいつが素直に言葉を口にするなんて、年に数える程しかない。俯いてしまったその表情はビルの影になりはっきりとは窺えなかった。
言葉を探しているのか、唇が何度か開かれては躊躇いがちに閉じる。酷く逡巡しているのが分かる。相変わらず情緒不安定なお子さまだ。
少し苛立ってシゲは水野の顔をかなり無遠慮な仕種で覗き込んだ。何が言いたい?
しかし、シゲの問いは言葉にはならなかった。
「…車、行くで」
水野の腕を強引に引っ張り、シゲは目と鼻の先のパーキングに停めてあった愛車に水野を押し込んだ。
大きな音を立ててドアが閉まる。シートベルトをする手間も惜しんでシゲは手荒にキーを回した。
一番近い小道を折れてすぐに急ブレーキを掛ける。抜いたキーを投げ捨てるとシゲは水野の首筋を掴んで強引に唇を寄せた。
「んっ…」
シゲ、と吐息混じりに僅かな声が洩れた。けれどそれはあっけなくシゲに無視された。押し付けられた水野の身体は助手席のシートとドアの隙間で苦し気に捻られる。
薄く開かれた隙間から舌を絡ませる。お互いに息が苦しくなるまで幾度も相手の舌を貪った。
遠くにクラクションの音が響く。
ようやく唇を離して、二人は深い息をついた。
「…バカ、事故る気か」
肩に凭れ掛かる金髪を、伸ばした指で水野は軽く梳いた。僅かな距離だったけれど、誰か飛び出したりしていたら絶対に止まれない、そんなスピードだった。
「しゃあないやん」
「何が」
「お前があんな所で発情してるから」
バカ、と続けた声は簡単にシゲの唇に飲み込まれた。どちらのものかもう分からない唾液が僅かに差し込むネオンに銀の糸のように光る。
シゲの親指がてらりと濡れた水野の唇の表面をなぞる。口の中に差し込まれたその乾いた指を水野は爪の先から根元までしゃぶった。
「目、開けて」
言われるままに薄く瞳を開くと、シゲが目を細めていた。
「そう、そないな目。さっきと同じ」
仕方ないだろう、水野は心の中で呟いた。
会いたくて、会いたくて仕方なかった。流れる景色を目に映しながら、けれど心の奥底ではシゲのことしか見えなくなるくらいに。
到着まであとほんの僅かの時間が酷く長くて、そして、ふと思ったのだ。
シゲもこうして横浜に来ていたのだろうかと。
口では決して甘い言葉を囁いたりしないし、何の約束もない。無性に悔しかったり腹の立ったりすることも多いけれど、それでも、こうしてふと無償で与えられていた優しさに気付くと、もう、どうしようもなくなってしまう。
「シゲ。シゲ」
堪らなくなって水野は名前を呼んだ。ここでいい?と耳元で囁かれた声に、水野は黙って頷いた。
目を瞑ったら、きっと新幹線から見た流れるネオンが見えるだろう。雨でぼやけた、あのネオンが、きっと。






ホントは漫画にするべき話かなーと思ったんですが、私が新幹線を描くことが未来永劫ありえなさそうなので。