手を伸ばして、そして

0301104



いつ来てもこの部屋には情緒というものが欠けている。
ペットは飼い主に似るなんてよく言うけど、この部屋も主に良く似ていると思う。
通りすがりのコンビニで買った、手土産という名のお菓子が詰まったビニール袋を水野は部屋の中央にどさりと置いた。擦れて毛羽立ちが目立って来た畳の中央は僅かに窪んでいて、ビニール袋はがさりと音を立てながらもその窪みに綺麗におさまった。
「シゲならまだ帰ってきてないよ」
寺の入り口で、丁度出かけるらしい寺の住人が親切に教えてくれた。
ありがとうございますと礼を言って、水野は慣れた玄関から入ってすぐ脇の階段を勝手に昇った。最初は一歩踏み出す度に軋む階段にちょっとだけ驚いたのだけれど、今ではなんの気にもならない。
来週から中間テストが始まる。決まってテスト前のこの時期にノートを見せろ、というシゲを、「嫌だね」と冷たくあしらっていたら、それを聞いていた部室の人間全員に大爆笑された。笑われた訳が分からずに一番近くにいた風祭に理由を尋ねると、
「だって、水野くんとシゲさんってば毎回必ず同じ会話をしているんだもん」
「秋の風物詩ならぬ、テスト前の風物詩だよなってさっきまで話してたんだぜ」
再び笑いが巻き起こる。隣にいたシゲも笑ってたけど、あれはきっと真っ赤になった俺を笑ってたに違いなかった。
「な、そーゆーことだからノート貸して」
期待を裏切っちゃあかんやろ?と覗き込むシゲに一発蹴りを喰らわせて水野は一人さっさと部室を後にした。恥ずかしくて部室を早く出たいのもあったけれど、追っかけて部室から出てきたシゲに水野は二人だけに聞こえる声で囁いた。
「明日。寺でな」

窓辺に寄り、水野は寺の庭を見下ろした。庭の先にはいまさっき水野が通ってきた道が見える。シゲの姿が見えないかと探したけれど、知らない自転車が一台のんびりと通り過ぎただけだった。
「ったく、どこ行ったんだか」
ぼーっとして待っているのもつまらないので、水野はシゲの机の前に腰を下ろすと今日出された課題のプリントを取り出した。家に帰ってやらなくちゃいけないのなら、今やるのも同じだ。
鞄の奥から筆箱を取り出す。最後に取り出した教科書を机の上に置くと、その弾みで消しゴムが机の奥に転がり落ちてしまった。
慌てて机の下を覗き込んだけれど、見当たらない。すぐ脇の棚の、机の足で陰になっているところに手を伸ばすと、指先に固いものが当たった。
「あった……?」
違う、こんなに消しゴムは大きくないし。冷たい金属の感触。つるりとしていて、あ、ちょっとごつごつしてる。
仕方なく水野は机の下に頭を入れた。這うような体勢で、死角になっていたその場所を覗き込むと、銀色の物体とその奥に落とした消しゴムがあった。
消しゴムと一緒に掴んで引き寄せる。鈍く光るそれは、子供の頃良く見たハーモニカだった。
「なんでこんなとこに落ちてんだ」
机の横の棚は、使われているのかどうか怪しい辞書や教科書が適当に投げ入れられていた。けれどハーモニカが入っていた記憶は水野にはない。触ると別に埃のついた様子もない。落ちてまだ新しいのだろう。
「なーにやっとんじゃ」
「うわっ!」
背後から突然降ってきた声に水野は心底驚いた。驚いた拍子にしたたか頭を机にぶつけて思わず涙目になる。
「っ痛てて……」
「……君は人の部屋でなにをやってはるの」
頭を押さえながら机の下から顔を出すと、シゲが呆れた様子で部屋の入り口から水野を見下ろしていた。
「消しゴムを落としたんだよ」
「人の机に宿題広げて、ホンマにクソ真面目やなあ」
「悪かったな」
何処行ってたんだ、と水野が聞くと、シゲはこれ、と右手に持っていた袋を水野の目の前に掲げた。半透明の袋の中には水野がお気に入りの紅茶の缶が入っていた。
「だぶってもうたな」
シゲは苦笑すると、先程水野が置いたビニール袋の横に自分が買ってきた袋を並べた。袋の中身は、それぞれミルクティーとコーラとお菓子。
「変なとこで気がおうたなあ」
店まで気が合えば良かったのに、そういう肝心なところは気があわない。
「お前が珍しく買ってくるからだよ」
「そらノート見せてもらうんやし?」
ちっとも悪びれないところがシゲの不思議なところだ。でも一番の不思議は、そんなシゲに何だかんだ言いつつもノートを貸す自分だったりするけれど。
「あ、そうだ」
急に思い出して、水野は先程見つけた変わった落とし物をシゲに手渡した。
「ハーモニカ?」
「奥に落ちてた。お前の?」
ううん、とシゲは首を横に振った。
「この間、この部屋で酒盛りしてん。そん時の忘れ物かも」
すい、とシゲがハーモニカを口にあてた。中学生が酒盛りなんかするんじゃねえよ、と常識的な説教を口にしかけた水野だったが、紡ぎ出される透明な音に思わず言葉を止めた。
知っているメロディがゆっくりと立ち上るように狭い部屋の中に流れる。
……ゆうやーけこやけーの……
「…あかとんぼ」
「正解」
さっき、自分のものじゃない、って言ったけれど、でも本当はシゲの持ち物なんじゃないか。それくらい自然にシゲはハーモニカを奏でた。懐かしく、甘い音が水野の耳をくすぐるようで、声もなく水野はその優しい調べに聞き入った。
殺風景な部屋の中で、この流れる音だけが彩りとなってこの小さな小さな空間を満たしているようだった。
曲が終わる。伏せていた目を開けるとシゲは優しく笑った。
「返しておくわ」
「……うん」
もしかしたらこの部屋の何処かにそっとしまわれるのかもしれない。何の確信もなかったけれど、水野は何故かそう強く思ったから、シゲの言葉に今はただ頷いておこうと思った。
「さ、そろそろはじめよか」
だるそうに自分の鞄の中からノートを取り出すシゲの肩を水野は軽く叩いた。
「なに?」
振り向いた顔が、ちょっとびっくりしたのが分かった。けれどそれ以上は顔が近付き過ぎて見ることが出来なかった。
「……テスト頑張れって、励ましてくれてんの?」
吐息のかかる距離で覗き込んだシゲの頬がほんの少し赤くなってるって思うのは、きっと気のせいじゃない。多分自分はそれ以上に赤いだろうけど。
「違うよバカ」
そうじゃなくて。
「…なんでこう、たまーに優しいんかな……」
「たまにとはなんだよ」
「だって、自分からキスとかなかなかせえへんやん」
「悪かったな。お前だってたまに優しいだけだろ」
「もしかして、たまってんの?」
「馬鹿!」
しおらしかった顔がいきなりいつもの人を喰ったような表情に戻って、いきなり人の股間を無神経に触ってきた。
「なんや、ちゃうんか」
ああ、やっぱりこいつには相変わらず情緒ってものが欠けまくっている。
水野は盛大に溜息をつくと、今度は胸元に伸びてきていた手をぱちんと叩いた。
ああ、でも、ちょっと。
「どないしたん?」
「…お前が変なこというから」
口籠る水野を、シゲはややあってああ、と納得すると口元に笑みを浮かべた。
「なんや、やっぱりやりたいん?」
「……っ」
伸ばされる指が顎を掴む。真っ赤になった水野を覗き込むその表情はいつものシゲだったけれど。
諦めたように嘆息すると、覆い被さってくる背に水野も手を回した。
ハーモニカのやさしい音がまだ名残りを留める今日なら、自分もシゲも、もしかしたら優しさが噛み合うのかも知れないから。