それはたぶんはじまりの言葉

021007



心地よい疲れと共に部屋の扉を開く。
闇に包まれた部屋は人の気配がないかのように無音だったけれど、水野は部屋の奥に向かい、確かにいる筈の名を呼んだ。
「シゲ」
「……タツボンか」
奥のベッドの向こう側、壁との間の床から相変わらずどこか呑気さを漂わせる返事が聞こえてきた。トレードマークの金髪の頭頂部だけが僅かにシーツの向こうに見えていた。
水野は後ろ手でゆっくりと扉を閉める。
入り口脇に部屋の電灯のスイッチがあることは知っていたけれど、敢えてつけないままに。
闇に慣れる為に、数秒、目を伏せる。次に見た室内はうっすらと輪郭が確認できたから、水野はまっすぐに声の主のいる方向へと歩を進めた。
「シゲ」
横顔に向かって、水野は再度名前を呼んだ。大分闇に慣れた目は、シゲのくっきりとした顎のラインや、首筋でその持主の気質そのままに縦横無人に跳ねた金色の毛先をしっかりと映すことが出来た。
「先に帰って何してたんだ?」
「んー、別に」
ここにおっただけ。シゲの返答に水野はあっそ、と簡単に返した。
風祭が見事復帰を遂げた夜。合宿所は大騒ぎだった。今回の合宿に召集されているのは、三年前の選抜で互いに戦ったメンバー達であった。
誰もが、知っていた。
誰もが、待っていた。
あの日、あの合宿で、自分の持てる全ての力を出し切って、そして最後に倒れた彼の事を。
必ず、戻ってくるから。
誰もがその言葉を疑いようもなく信じていた。
だって、風祭だから。
どんな困難にも果敢に挑み、そして不屈の精神で乗り越える彼の生き様を、皆、目の当たりにしていたのだから。
完治する見込みが殆どないと宣告された怪我でも諦めず、唯一の光明をドイツに見い出し旅立った彼は、三年の月日を経て、約束通りに戻って来たのだ。
もう一度、ピッチに立つ為に。サッカーをする為に。
「もうお開きになったんか?」
「いや、榊監督が酔いつぶれちゃって大騒ぎ中。鳴海や藤代も飲みまくってたろ、今しこたま吐きまくっててさ」
風祭の復帰を喜んだのは選手だけではない。榊や松下、そして西園寺。当時のコーチ陣も交えて、夕食後は無礼講の大宴会となった。最初はジュースだけだったのが、酔った榊が選手の幾人かにもビールを振る舞い出して大騒ぎとなっていった。
だから風祭と一緒に逃げ出してきた。
肩を竦めた水野にシゲはくっくと笑った。
「酷いわ二人とも」
「てめえには言われたくねえよ」
さっさと姿くらましてたのは何処のどいつだ。
笑いを堪えて身体を震わせるシゲの肩をぐいぐいと蹴る。壁とシゲの間に少しスペースが空く。多少狭かったけれどそこに水野は身体を滑り込ませた。
ベッドと壁、そして窓と三方を囲まれた狭いその場所で、二人はベッドの足元に凭れ掛かった。足も満足に伸ばせないその場所は、けれど触れあう肩から体温を感じて水野はその心地よさに目を伏せた。
視界を塞ぐと、触れあう体温が上がったような錯覚を覚える。微かに伝わる鼓動の音さえも、より強く自分の中へ響く、そんな気がする。
まだ続いているであろう喧噪は遠く、ただひたすらに静かな世界だった。
響くのは、鼓動の音だけ。
「……風祭がさ」
二つ手前の部屋が風祭の部屋だった。抜け出してくる途中、二人はただ笑って帰ってきた。
「水野くん、いいのかな、あのままで」
「そのうちおさまるさ。それにお前がいたらいつまでも落ち着かないだろうから」
「そうだね」
部屋にはまだ誰も戻っていなかったから、風祭はポケットのキーを取り出して鍵を開けた。
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
「……水野くん」
呼び止められて水野は振り返った。

「風祭がさ、言ってた」
振り返ったそこには、昔と変わらない笑顔があった。
「ありがとう、って」
「……タツボンにやろ」
「違うよ」
俺だけじゃない。
お前にも。
「なんや、心配かけたってか」
「馬〜鹿」
水野は右手でシゲの鼻をぎゅっと掴んだ。
「痛てててて!」
シゲが途中で抜け出したことは、風祭も知っていた。
けれど、何も聞かなかった。きっと、分かってるから。
俺も、分かってる。
この見掛けがど派手な男が、この三年間、どれだけ心配して、遠い異国の地の姿を思って、そして負けじとただひたすらにサッカーに挑み続けてきたことを。
サッカーを、続けていてくれてありがとう。
そして、自分のことを忘れずにいてくれて、ありがとう。
「……三年でよう戻ってきたなあ」
鼻を摘まれたままでシゲが呟いた。鼻声がちょっと可哀想で、水野はその手を離した。
「……頑張ったよな」
「そやな。あーあかん。タツボンがぎゅーっと掴むから、鼻痛くて涙出てきた」
そのシゲの声に水野は思わず笑った。手を離したのに、その声は変に詰まった音で。
「タツボン、泣いとんの?」
ばっか、と言おうとして既に自分の声が涙で出ないことに水野は唐突に気がついた。
あれ、おかしい。笑ってたんじゃなかったっけ。
滲む視界の向こうで、シゲの顔が歪んだ。
「しゃーないなあ、ほれ、胸かしたるし」
「馬っ鹿……」
シゲの変に感極まった声を笑ってやりたかったけれど、自分の声の方がずっとずっとおかしくなっていた。
隣で揺れる金髪の肩に水野は自分の顔を押し付けた。背中にシゲの手が回されたのが分かった瞬間、堪え切れなかった涙がシゲのシャツに染み込んでいった。

ありがとう。
違うよ風祭。それは俺達の台詞だよ。
戻って来てくれて、ありがとう。
サッカーを続けていてくれて、本当にありがとう。





原作終了SS。小説とゆーか読み物になってないな……そのうち消すと思います(><)わたしがありがとうと言いたいだけなんじゃ!みたいな。