夏のあとさき

020820


「シゲー」
無人の校舎に響く自分の声はあまりにも間抜けていて、水野は思わずその語尾のボリュームを下げた。
無機質な薄クリーム色の壁は何も答えない。
びっちりと締め切られた窓のお陰で、コンクリート造りの廊下は直接陽が差し込んでいるわけでもないのに蒸していた。額に滲む汗が気持ち悪い。
階段を昇り西の突き当たりから二番目の教室を水野は覗き込んだ。燦々と陽が差し込む教室内は見ただけでその熱気を伝えてきそうで水野は早々に首を引っ込めた。
「ったく、何処にいったんだか」

サッカー部は昨日から泊まり掛けの合宿に入っていた。泊まり掛けの意義はサッカーを集中的にやりこむ技術向上もあるが、一番の目的は部員同士の連帯感を強める事だ。
チームプレーを主体とするサッカーと云う競技において急造チームで勝つ、というのは余りにも無謀な賭けであることは水野自身良く知っていた。試合である程度のプレイなら自分やシゲでこなせる確信はあるものの、それだけでは決して勝てない。
しかし先輩達を追い出してまで自分が追い求めたサッカーで、まずは結果を出す、それが水野のせめてもの意地だった。

それなのに上級生であるシゲが早々に姿をくらましては、全くしめしがつかない。

念の為、と思いながら3年生の教室にも足を伸ばしたがシゲの姿は無かった。ふと思い付いて水野は渡り廊下へと足を向けた。今いる3年生の階から特別教室棟に繋がる渡り廊下からは多分全ての教室の窓が見えるのではないかと思ったからだ。
渡り廊下は夕日を受けて橙色に染まっていた。眩しい夕日に目を細めながら水野は手すりから身を乗り出した。案の定、全ての教室の窓を見渡すことが出来たが思わず水野は舌打ちした。
夕日が全ての窓に反射して、教室の中が覗き込めなかったのだ。それは計算外だった。
「……あっつ……」
落胆でのせいか急速に力が抜けて、水野は溜息と共に渡り廊下で座り込んだ。
けれど日中夏の日射しに照らされ続けた廊下の床は、まるで熱で膨張したかのように不快な暑さを訴えてきたので水野は下ろした腰を無理矢理元の立ち位置に戻さざるを得なかった。
何で俺がこんな暑い思いしてまで探さなきゃならねーんだ。
不快な熱は苛々を募らせる。水野は熱を振払うように頭を振った。額から飛んだ汗が床に落ちたが一瞬の内にその染みは姿を消した。
目を瞑ると目蓋の裏で橙色の光がぱちぱちと跳ねていた。目が痛い。
もういい、どうせ気紛れなあいつのことだから、ひょっこり戻っているかも知れない。
「……あ」
そうか。
閃いたのは偶然だった。けれどすぐ確信になった。
そうだよ、暑いんだから。
あいつが暑い教室にいる筈なんかない。
気合を入れて身体を起こすと、水野は今さっき通って来た教室棟ではなく、向かいの特別教室棟の方へ向かった。


特別教室棟は更に閑散としていた。頻繁に使わないからだろうが、廊下の壁の奇妙な白さや変に整頓されたような並びは生気というものとは完全に懸け離れていて。
水野が階段を一段飛ばしで駆け降りる足音を咎める人だって誰もいない。
「シゲ!」
ここだ、という確信の元に水野は美術準備室の扉を勢い良く開いた。特別教室棟の端にある美術室の横にある準備室は他のどの部屋よりも狭いのに何故か冷房設備がある。そして美術の教師は皆ズボラで鍵を掛けることが滅多に無いのは学校中の生徒が知るところだ。
案の定、開けた扉の中からは涼しい空気が溢れて水野の頬を爽やかに撫でた。そして部屋の中央の机に凭れかかるようにしてすやすやと寝息をたてるシゲの姿があった。
「ったく……何寝てるんだよ」
派手な音で扉を開けたのにもかかわらず、シゲは心地よさげに寝息をたて目を覚まさなかった。
大股歩きで近寄ると水野はシゲの寝顔を覗き込んだ。
ぐいっと髪を引っ張る。けれど反応はない。
駄目だ。完璧睡眠モードだ。
「シーゲ」
耳元で、幾分小さな声で水野はその名前を呼んだ。余りにも幸せそうに眠っているから、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ気が引けたからだ。
再度髪を軽く引く。見た目よりは意外にさらりとした金髪は、力を抜いた水野の指から落ちて陽に焼けた彼の頬にかかった。
彼の寝顔を見たのは初めてだった。目を瞑ると幾分幼く見えるその横顔は、何故か水野を安心させた。
幼いその表情は1年前の記憶の彼のようだ。
一瞬だったけど、めちゃくちゃ楽しくて嬉しくて、目眩がする程に幸福なサッカーが彼と自分との間に確かに存在した。
去年の夏の空の色。抜けるような蒼は息を飲む程に綺麗だった。
もう一度。
もう一度、戻れるのだろうか。
先輩とか後輩とか父親とか期待とか意地とか関係なく、ただがむしゃらにボールを追って前を見て。走って。蹴って。
もう一度、あんな空を、見ることが出来るんだろうか。
シゲ。
水野は小さく、目の前の金髪の名前を呟いた。
久しく、口にすることさえ無かった。ずっと、ずっと小さな棘のように水野の心の何処かに引っ掛かって、けれど絶対に口にしなかった、認めなかった名前。
そんな自分の高い高い壁をいとも簡単に飛び越えて、彼はさらりと笑って自分をまた呼んだのだ。


「……そんなに見蕩れる程俺ってカッコええ?」
「っわ……!!」
突然開かれたシゲの両の目に水野は思わず身体毎跳ねた。
「おっ、……起きてたのか……!」
「んー、まあはっきりとは目エ覚めてたわけちゃうけど。流石にあんな派手な音立てて飛び込んできたらイヤでも目覚めるし」
あー、よう寝たわ。そう言ってシゲは猫のような仕草で背伸びをした。
「なーんかタツボンが黙りこくって俺のこと見とるから、なんや寝起きでも襲われるんかいな、って期待しとったんだけど」
「するかバカ!」
真っ赤になって怒鳴る水野の可笑しさにシゲは遠慮なく大声で笑った。
「ったく、大体お前が練習抜け出して……」
「あーはいはい、悪うございました。戻るて、な」
手慣れた様子でシゲは冷房を切り水野の腕を引っ張った。冷房の効いた部屋から一歩出るとじっとりとした日本の夏特有の湿気が暑さと共にあっというまに二人を襲った。
「暑っつー」
「暑いじゃねえよ、練習するぞ」
「お、皆頑張っとるみたいやなー」
廊下の窓越しに二人はグラウンドを覗いた。橙色に光るグラウンドの上を走り回るチームメイトの姿が見えた。声は聞こえなかったけど、今にも、それこそボールを蹴る音でさえ、聞こえてきそうな。
「青春やなー」
じじむさいシゲの台詞に呆れて文句を言おうとした水野だったが、けれどその横顔に声を止めた。
窓越しに差し込む夕日は世界を均等に照らして、勿論二人もその例外では無かった。シゲの金髪が夕日を受けて煌めく。眩しい、と思った。目を閉じても、きっと目蓋に焼き付いて離れない、そんな痛いような眩しさを、けれど水野は目を細めるだけで堪えた。
この眩しさに。
目を閉じずに。
胸の奥にゆっくりとあの忘れられない蒼が蘇る。
抜けるような青空。だけど。
あの蒼とは別に、そう。こんな橙の景色もいいかも知れない。
きっと、痺れるような幸福は、どちらにもある。






夏なのにエロの神様は何処かに消え失せてるようですよー(泣)!なんでキスすらしてないんじゃオラ!
おまけにタツシゲ風味です。違いますよ!心はシゲタツなんですけどね!!!