雷鳴

020810


 雲天の狭間に瞬間、雷光が過る。水野は駆け足で走っていたその足を止め、鈍色の空を見やった。
 ここ数日、近年稀に見る酷暑を記録した夏の暑さはここにきて漸く一息つくだろう、という天気予報のニュースの声を思い出す。けれど何も花火大会の日に曇ることはないだろう。
「こんにちは」
「よう、シゲなら部屋にいるぜ」
 草晴寺の門から丁度出てきた居候の一人がにこやかに出迎えてくれた。ええ、と軽く会釈だけ返すと水野は勝手知った玄関を開け、もどかしげに靴を脱ぐとすぐ正面にある階段を駆け昇った。
「シゲ」
 部屋の主の断りを待たずに水野は襖を勢い良く開けた。しかし部屋の主である男は、おおかた外から駆けてきた足音が聞こえてでもいたのだろう、特に驚く事もなく寝っ転がっていた畳の上からけだるげに身体を起こすと、一言、「よう」とだけ言って笑った。
「よ、じゃねーよ」
「ココの階段、ぼろっちいんやからそない勢い良く昇ったらアカンで?和尚に怒られるで」
「そーじゃねーだろ」
 相変わらずのシゲの物言いに水野は無言でシゲの寝転がったその背を踏み付けた。
「いでっ」
「今日、6時に集合っていってただろ。ろ・く・じ」
「ああ、花火?」
「今何時だっ!」
 水野はシゲの目の前に自分の腕時計を突き出した。
「20分も過ぎてるだろ!この馬鹿!」
 そもそも花火大会に行こうと言い出したのはこいつだった。毎日の部活でここ最近のあまりの暑さに1年生が気分を悪くする事態が続いたため、松下監督は「取り敢えず御盆過ぎまで」と練習時間を短縮した。なので通常なら6時半から始まる地元の花火大会は例年なら学校からの帰り道に電信柱と軒の向こうに見えるだけだったのが、今年は席取りも出来て綺麗に見えるんじゃないか。
 そんないいだしっぺが呑気に目の前で団扇を仰いでいる。
 水野はもう一度背中を強く蹴っ飛ばしてやった。
「風祭達が席取りしてくれてるから、ほら、いくぞ」
 センスがいいんだか悪いんだか微妙な柄のTシャツから伸びるシゲの腕を水野は掴んだ。引っ張り上ようとした水野の手をしかしシゲのもう片方の腕がやんわりと遮った。
「なんだよ」
 その瞬間、空が真っ白に光った。そのまま雪崩のように激しい雨が乾いた地面を打ち付けた。
 滝の音とも聞きまごう轟音が鳴り響く。網戸越しに雨が室内に侵入しようとしているのを見咎めたシゲが素早い動きで窓ガラスを閉めると漸く轟音が遠くなった。
「あー危な。もうちょっとで畳が濡れるトコやったわ」
「……何、雨が降りそうだから来なかったワケ」
 自分でも声が凄んでいるのが分かった。その声にシゲがゆっくりと入り口に立ったままの水野へと振り返った。
「そういうワケちゃうよ」
 シゲは優しい笑みを見せた。けれどその微笑に水野は頬を歪ませた。
 自分の一番嫌いな笑顔だ。こいつは自分の笑みだけで相手にいろんな事を許させる術を知っている。騙される。
 水野はくるりと身体の向きを反転させた。
「……帰る」
 これ以上ここにいると、感情的に叫び出すであろう自分を充分に予測出来た。そしてその自分の言葉なんかこの相手には全く堪えない事を嫌と言う程知っていたから水野は唇をきつく結んで後ろ手で襖を閉めた。
 後ろから何か声が追ってきたような気もしたのだけれど、自分が階段を駆け降りる音でそれは掻き消されて聞こえなかった。
 入ってきた時と同じく玄関の扉を勢い良く開けると水野はそのまま豪雨の中へと飛び出した。

「おいこら!待たんかい!」
 背後から肩をぐい、と掴まれて水野は思わず転びかけた体勢を持ち前の反射神経でどうにか堪えた。
 轟音を立てる雨はその沫で世界を白い靄に包んでいた。トレーシングペーパー越しに眺めるような世界の中で振り向いた先の金色が目に痛いほどの鮮烈さで水野の視界に飛び込んできた。
「何考えてんのや阿呆」
 差し掛けられた傘の中に強引に連れ込まれる。吐息の温度が分かる程の至近距離で視線が合って、水野は先に目を逸らした。
 二人が入っている傘はどうやら女物のようだった。一回り小さめのその傘の中で身動きが許される空間というのは極少で、触れてはいないけれど寸前の位置に有る互いの体温が空気越しに伝わってくるようだった。
 肩を掴む手が原因かもしれない。Tシャツ越しだというのに、シゲの右手に掴まれた肩はダイレクトな熱を帯びて何故か水野をいたたまれない気持ちにさせていた。
「……まあ俺も悪かったけど。スマン」
 僅かに語尾が掠れたその言葉に水野は恐る恐るシゲの顔をみた。
「でも最後まで聞かんお前も悪いんやで?あのな、お前がこっちに来る間にコーチから電話があってん。雷の危険があるからって花火大会が明日に延期になったから、お前にも伝えてくれ、て」
「な、……んだそれ」
 慌てて右ポケットの携帯を探る。着信を見ようとして、しかし自分が電源を切っていたことを思い出した。
「ったく、すぐカッとするんがお前のあかんトコやな」
「悪かったな……!」
「ほら、また怒る〜」
「!……っ」
 そんなことは言われなくても知っている。けれど図星なだけに痛い。思わず唇を尖らせる水野にシゲは苦笑した。
「ほら、帰るんならこの傘、持って行き」
 気ィつけてな、という言葉と共に青い傘の把手が水野の掌に押し付けられた。
「あ、……おい!」
 白い雨のカーテンの中にあっという間に金髪の後ろ姿が飲み込まれてゆく。慌てて水野は追いかけてその背を捕まえた。
「シゲ!」
「なんやねん」
 振り返ったシゲの額には金色の髪がべったりと張り付いていた。幾筋もの水滴が頬を伝う。
 僅かに、ほんの僅かだけれども、水野はその水滴に見愡れた。髪を伝いこめかみから頬を流れ落ちるその軌跡を言葉もなく見つめた。
「……寺に、一緒に、戻る」
「……そか」
 雨止むまで待っとり、というシゲの言葉に水野は今度こそ素直に頷いた。
「取り敢えず風呂でも湧かしてもらおか」
 このまんまやと風邪引きそうやしな。そういったシゲの指がふいと水野の額に伸ばされた。
「お前、ずぶ濡れやん」
 指が額に触れた。額に張り付いていた前髪をかき上げられて視界が明るさを取り戻した。そこで漸く水野は自分自身もずぶ濡れなことを思い出した。
 水野は思わず目を瞑った。
 熱い。
 触れられた額が唐突に熱を帯びた。ちりちりと痺れる疼きが猛烈に水野の理性を襲った。沸点を超えそうな目眩を水野は右手をぎゅっと握りしめる痛みで乗り切ろうとした。空がまた光った。西の方角から雷鳴が近付いているようだった。水野は空と傘の境界線をじっと見つめた。雷に打たれたって、こんなに苦しくはないかもしれない。
「……お前だって、おんなじだろ」
 漸く振り絞った返事は、普通に届いた筈だった。
「そやな」
 さ、帰ろ、と促されて二人は寺までの道程を駆け足で戻った。その間、水野の右手はずっと解かれることは無かった。
 解いたら、痛みで誤魔化した目眩が戻って来そうだったから、決して力を緩めることはなかった。
 未知の目眩の正体なんて、恐くて、絶対に絶対に知りたくなかったから。




シゲタツサイトとか言いながら思いっきりシゲ←タツになってます……あかんやん!!
あーでも好きなんですよ、気の強い受が恋い焦がれるってゆーパターンが(爆)。