1978年
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昭和53 | (再掲) ●・・・熊本県小児糖尿病を守る会は、昭和53年(1978)に至り厚生省を相手どって訴訟を起こす予定であったが,インスリン自己注射の健保適用の見通しが見えてきたので,訴訟を見合わせる。 本間注:難病認定「特定疾患対策事業対象疾患」を曖昧にしたまま、予算補助としての小児慢性特定疾患治療事業で親が保護期間中である医療費軽減という甘い罠と、憲法第13条にある「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」及び第25条第1項「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」第2項「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」・・・これは具体的理念であり、全ての国民の生存権を国が保障し&これが国の責務とされているのに糖尿病患者に対する生命健康維持の医療であるインスリン自己注射健保適用という世界的に類を見ないあまりにも遅い対応であり、特にインスリンが生命維持に必要必須な多くの患者への基本的対策であるにも関わらず、根幹の請願内容である1型糖尿病に対する難病認定を見送り、同時に訴訟を見合わせたことは大きな誤ちです。 ・・・が、懲りず厚生省はその後も長野県方式への圧迫をした。 しかし、きわめて熱心にこのことに取り組んでくれた厚生省の技官が出現し,先方からの接触があった.この接触の始まる基盤には,多数の布石があったことは事実である。 同技官は,インスリン自己注射の公認について,長年月にわたってイギリスに留学することになった。 さらに最終的にすべてをクリアするに至って1981年のインスリンの保険適応に繋がっていく。 (再掲) インスリン自己注射の公認まで:・・・昭和53年から昭和56年にかけて,直接その交渉に当たった方々の数は実に多く,苦労に満ちたものであった. ただし,その打開の真の原動力は,医療は医師だけのものではなく,患者とともに手を携さえておこなうべきものであるという,医師を含む国民全体の意見が定着し,これが,インスリン自己注射を当然のこととして公認する機運が熟したことによる. 2年前の「日経メディカル」に,厚生省が学会の理不尽な横車に抑えられて,インスリン注射という医家でなければ出来ない医療行為を患者にさせることになったが,これは違法であると投書された医師があった.厚生省は決して学会の横車に負けてインスリンの自己注射を公認したわけではないことを何度でも繰り返して強調したい.学会はむしろ,この件に関し,横車どころか,サイレントであった. 医療従事者は,患者の生活と生命を守るために働くのであって,いわゆるquality of lifeをより良くするための手助けをしなければならない.この流れの中にあって,インスリン注射を患者から取り上げれば,生活を,ひいては生命も侵すことになることに,国民全体がようやく気づいたといえる. (平田幸正 インスリン自己注射の公認まで より) 学会設立23年後にようやく自己注射公認: 最大の問題はインスリン自己注射の公認であった。日本糖尿病学会の理事会は学会から厚生省に要望する形式ではなく学会理事が個人々々で要望する方針を決定した。しかし、厚生省は学会よりの要請を必要としていたので日本内分泌学会がそれを行い1981年にようやく公認された。 病気の研究は病気を治し患者の苦痛を除くことが目的であり目標である。日本糖尿病学会ではインスリン自己注射の問題を20年以上も政治と役所の問題として放ってきたことは、この目的を見失って懸命の努力をしなかったことであり、どれくらい多くの小児がインスリン注射ができずに亡くなったかと思うとまことに申し訳なかったと思っている。 (後藤由夫 「私の糖尿病歴50年 -糖尿病医療のあゆみ-」 より) 日本医師会(常任理事澤 倫太郎)の認識: 難病対策委員会議事録(平成14年5月)より・・・難病で、なじまない疾患についてのところですが、(中略)IDDM小児慢性事業のほうで、これが確か難病でもなんでもないのです(後略) 本間注:未だ日本医師会や日本糖尿病学会は、組織としての権威ばかりを追求し、患者を救うための行動に関しては何もしないスタンスのままです。 ●ベスト死亡。1978年3月31日、心不全のため死亡。享年79歳 ●ロンドンのガイズホスピタル・グループは 12人のIDDM患者に上腹部皮下にアクトラピッドインスリンをミルヒル製ポンプで注入 (携帯型注入ポンプ「CSII」の方法を始めた)
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