Diabetes Journal Vol.4, No.2, pp.40-48, 1976

座談会(昭和51(1976)年2月26日)
日本糖尿病学会創設の頃
(全文はここ)

日本糖尿病学会と協会の設立とその歩み

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小林 芳人
KOBAYASHI Yoshito
東京大学名誉教授
〒113 東京都文京区本郷 7-3-1

葛谷 信貞
KUZUYA Nobusada
朝日生命成人病研究所
〒160 東京都新宿区西新宿 1-9

小坂 樹徳
KOSAKA Kinori
東京大学医学部第3内科
〒113 東京都文京区本郷 7-3-1

竹内 節弥
TAKEUCHI Setsuya
日本医科大学薬理学
〒113 東京都文京区千駄木 1-1-5

司会
葛谷 健
KUZUYA Takeshi
自治医科大学内分泌代謝科
〒329-04 栃木県河内郡南河内町大字薬師寺 3311-1

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本誌では,これまで糖尿病に関連ある歴史,とくに日本の糖尿病研究史を毎号とりあげてきた.現在わが国の糖尿病学の研究発表の中心をなすのはいうまでもなく日本糖尿病学会であり,学会創設期のいきさつをぜひ一度“歴史”欄でとりあげたい,という話は編集会議でもしばしば提案された.
日本糖尿病学会設立からすでに18年を経過し,当時の記憶もだんだん薄れてくることが心配されたが,幸いにも今回,初代理事長であられた小林芳人先生を囲む座談会を開くことができた.
学会ができる前後のいきさつは,いろいろ興味ある話題に富んでおり,この座談会の内容はこれからも貴重な史料となるものと考える.
(葛谷 健 記)
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糖尿病の化学療法研究班について

葛谷(健)
本日は,“糖尿病学会創設の頃”という題で,小林先生を中心に話をお聞きしようということが座談会の目的です.
糖尿病学会ができる以前から,その母体となった研究班などがすでにあったと伺っておりますが,その研究班ができるようになった頃のいきさつといいますか,そのへんから話を始めていただきたいと思います.
(以下省略)


糖尿病研究班の成立の頃

小林
文部省の糖尿病化学療法研究班は,3年間続いて打ち切られました.
そのあとも続いて薬理研究会からだいたい似たような費用をもらうということで,同時に血管障害に対する研究班ができたのではなかったでしょうか.
(以下省略)


学会設立の精神

小林
“糖尿病”第1巻には“この総会ではシンポジウムの形式をとって,まず重要でかつ興味のある問題を決めて,これに対して会員から出題を要請する.
記録は,講演はもちろん質疑応答にも重点をおき,全部速記をとることにした.
これをまとめたのが本誌である”と私が書いていますが,この形式が第何巻ぐらいまで続いているのですかね.
(以下省略)


日本医学会への加盟

葛谷(健)
これで大体創立の頃の話は終わりましたが,学会が国際的に公認されるのは,IDFに加入するということが一つあると思いますが,国内的には日本医学会の分科会の一つになったということだと思いますので,今度はその頃のことをお話しいただきたいと思います.
(以下省略)


日本糖尿病協会のこと

葛谷(信)
小林先生,最後に,協会と学会との関係はどのようにつないだかというようなことと,協会ができた経過についてお話しくださいませんか.これは“学会の創設の頃”という枠をこえるかもしれませんが,ただ学会の立場で,協会はどのような形であるかということを,この機会にうかがっておきたいですね.

葛谷(健)
協会を作ろうというのは,学会ができてすぐにそういうことになったのですか.

小林
私はそのように記憶しております.
結局,国際学会に入る時の条件として,協会をもつということがあったのです.
協会が必ずなくてはいけないというのであれば加盟を申し込むことはできませんが,そうでもないらしいというので,まず加盟しておいて,それから一生懸命作ろうではないかということでした.

葛谷(信)
IDFの規定からいって,大橋先生がお書きになったものを見ますと,この当時は学会のlayman部門と書いてありますね.
ですから,その学会というのは,要するにAmerican Diabetes Associationに相当するものですね.
ところが日本の場合は,laymanの組織を作ってゆくということに時間がかかったということと,学会と協会というものがおのずからセパレートする格好になったのですね.
しかし,とにかく片方ではlaymanの部門を育てなければいけないという考え方が学会に強くありましたので,資金的に援助をしたり,あるいは版権で援助をしたり,その他のいろいろな援助をしてきたという過程があったのではないでしょうか.

葛谷(健)
一番初めは,どういうふうにお作りになったのですか.

葛谷(信)
各部の糖尿病のお医者さんを中心にして,患者さんの組織ができるというように,これはもう自然発生的にすでにあったわけです.

小坂
糖尿病教室はすべて,患者教育の一環として行われていたわけですよ.
それに多少世話をしてくれるような人もいらっしゃったわけです.

葛谷(信)
ところが,それを全国的な組織にするということが,簡単には進まなかったのです.

小坂
それでは,会を作ったのは,そういう会を作って欲しいというような気持が学会の中にあって,その方向に皆が協力したということですね.

小林
しかし,まだ全国に行き渡るようにしようという考えではなかったのですがね.

小坂
なかなか全国的というわけにはゆきませんでしたね.
しかし現在では,県で入っていないのは二つくらいだけですよ.

小林
そんなになりましたか.最初はいくつくらいからスタートしたのでしょうかね.

葛谷(信)
東京は四つ五つすぐできました.

小林
作るのに手こずったところもありました.
Laymanの方にとっても,国際学会の趣意がどうのこうのといってもわからないでしょう.
一体何のためにわれわれを入れたのか,そしてどうしようというのか,医学の研究のために医者がわれわれを利用しているのではないか,というような考え方を持った人もいたのではないかと思いますよ.

葛谷(信)
今だってそれはありうるでしょうね.
しかし,私たちが本当に心配したのはむしろその逆なのです.
つまり,患者さんの組織を作って教育をやりやすくするとか,あるいは福祉を向上するとかいうことは非常によいわけですが,とにかく糖尿病の治療についてはまだハッキリとした方法が確立したわけではありませんし,いろいろな意味でいかがわしい治療方法を進める機関にされたり,よこしまな道に組織が利用されては困るという心配が強くあったわけです.
ですから,
協会の役員の中にたくさんの学会の会員が入るような組織ができたのです.
その傾向は現在もまだ残っていますね.

小林
協会の中に学会が入り込むというのはどういうことですか.

葛谷(信)
協会を患者さんだけが組織すると,ごく端的にいいますと,政治団体になってしまうという可能性がありますね.

※本間注:
協会の趣旨はレイマン組織でなければならなく、医療関係者が組織するモノでは有りません。
医者が協会組織に入れば、自ずと多くの患者を死に至らしめ、多くの患者を後戻りできなくなる合併症患者にし、医療の手による「殺人病」の汚名隠しや、金儲けを医療を隠す為の組織作りとなります。
インスリンがなければ即「死に関わる」絶対的枯渇の1型糖尿病患者や、様々な相対的原因で発症・重症化するインスリン依存状態の2型糖尿病の患者を、当初から医者や医療の手の中「罠」に入れる事を念頭に置いた医者の為の「糖尿病患者は万馬券」の分かちあい組織作りを行っていたと言うことです。


小林
そうすると選挙運動に利用されますね.

葛谷(信)
それを一番心配したのです.
それから,糖尿病患者用食品というのがいくらでもありますから,そういうものの販売組織になるなど,心配しなければならないことがあったのですよ.

小林
最初に,会を作る相談の時にその心配がずいぶん出たのです.
その発起人の中に冲中先生も勝木先生もおられましたね。

葛谷(信)
しかし現在はそういう心配はなくなったといっていいでしょう.

小林
それから,山本為三郎先生を協会の会長に引っ張り出したのも成功だったと思います.

葛谷(信)
そうですね.
あの方が早く亡くなられたのは惜しかったですね.

小林
もう少し生きていて下さるとよかったのですが,あの人は医学に理解もありましたし,立派な人でした.
あの人を会長にすえて,協会もまっすぐな発達をしたのだと思います.

葛谷(健)
それではこのへんで終わりにいたしましょう.
どうもありがとうございました.


(昭和51(1976)年2月26日)